情報の新鮮さと確かさと危うさ

情報リテラシーの重さ。

”情報化社会”という言葉さえ遠い昔の死語となった昨今、私たちは日常でネットを意識すること無くアクセスし、否応無しに膨大な情報に囲まれて社会を生きています。

昔から、”情報”は、真実か、真実でないか、によって社会や人々を翻弄してきました。歴史を動かすすべてのキッカケであったと言っても過言ではないと思います。

ニュースなどの”情報”は人によって伝えられます。そういった情報の発信源や経路では、人によって情報は変換され、解釈され、必ず何らかのフィルターを通っています。

以前、とある民放テレビ局の社長が、とある企業による買収の話があった際に、「我々には真実を伝える義務があり、真実を伝えている」とインタビューで堂々と発言されていました。成り上がりのIT企業に買収されたら真実を伝えられなくなり、そんなことはあってはならない、言語道断だ、という意図での発言だと推測されますが、民放テレビ局が真実を伝えることなどできる訳もなく、明らかに詐欺的な発言ですが、しかしほとんどの視聴者や関係者はそれに疑問も持たなかったと思います。

いや、日々の生活の中で、疑問を持つほうが少数でしょう。
テレビや雑誌、新聞、人の話などに囲まれ生活せざるを得ない状況では、それらを信じて生活しなければ、”仲間はずれ”になるからです。
日本の社会は、正しいかどうかではなく、仲間かどうか、のほうが重要視される社会といえます。

実際、私たちが得ている情報のほとんどは、どこかから与えられている情報です。
自分が生み出したものではなく、ほとんどは確かめたものでもないでしょう。
自分が、そう願いたいと思う情報を、真実だと信じ込んでしまうことも多々あると思います。そのこと自体に気づかずに。。。

だから、国民/大衆/世論という人々の集団は、どう考えても良くないという方向に、カンタンに流れていきます。
そして仲間はずれにならないよう、さらにその情報を弁護するようになります。

どの情報が本当の情報か?
その情報を受け入れるのか、距離を置くのか?
どれくらい距離を置くのか?どこまで信じるのか?
自分が発信源として相応しいか?責任を持てるか?
単なるプライドや見栄っ張りで無責任になっていないか?

個人個人で考え、判断して行動することの必要性が、以前よりずっと増していることは事実だと思います。
とくにこれからの子供たちには、この情報リテラシーの習得が基礎教養の一つであることは間違いないでしょう。