未来を考える、ということ。

 

未来を考える。

これって、結構難しいことだと思います。

未来を考える時、大きく2つの考え方があると思います。
どうなっていくか、と予想する、未来。
どうなってほしいか、と希望する、未来。

前者は、客観の場所から、「教えてほしい」という前提があり、受け身、受動のスタンスで未来を見ています。
「この先、どうななるのかな。教えてほしい。」と、他者に質問する目線ですね。
自分自身で考える場合には、自分のもっている知識や思考で、論理立てて予想すると思います。
その際は、もちろん客観的に考え、導き出そうとするでしょう。
しかし、予想するために備えている個人の知識や思考は、大抵、偏りがあります。
個人の知識や思考は、好き/嫌い、納得できる/できない、理解できる/できない、興味ある/ない、といった趣向でどうしても偏っているからです。
ですから、どんなに客観的な予想を導き出したと思っても、実はその人の趣向が入り込んでいます。
よって、自身で考えた場合は、どう考えても「どうなってほしいか」という未来、つまり、後者になります。

前者は、他者の未来で、後者は、自己の未来と言えそうです。

ん?
でもヘンですね。
他者は、やはり個人ですから、結局は、他者の未来=自己の未来ということになりますね。
つまり、未来を考えると、推測ではなく「どうなってほしいか」という希望になるのですね。

ん?どうなってほしいか??
もうちょっと考えてみますと、、、
なにをどう考えても、考えられる未来は単なる希望だということ?
どんなに論理立てて慎重に考えても、そこには個人のフィルターが入り、さらに予想できない偶然や不確定要素が入り込むわけで、
結局、所詮、未来は、どうなるか分からない、受動のスタンスに陥ってしまいますね。。。
これでは、未来を考えているという主体性がない、ということになります。
あまり面白くない落としどころです。

で、
つまるところ、主体的に未来を考えるということは、こう考えるしかないのです。
「未来を、どうしたいか。」

いつでも、誰にとっても、「未来をどうしたいのか」が、未来になるわけですね。
ごく当たり前のことですよね。
当たり前のことなんですが、実は普通、未来のことを考えるとき、「未来をどうしたいか」と考えている人って、日本ではあまり多くない気がします。
ほとんどは、「どうなっていくか」と考えることが普通のように感じます。
でもそれは、実はあまり意味がなく、本当は「どうしたいか」と考えなければならない、と思うのです。

そうやって皆が未来を主体的に考えていくようになれば、
ちゃんと前を向いた社会に変わっていくと思うのです。

そして「どうしたいか」を考えるとき、
「本当に自分にとって良いこととは何か?」と考えると、
自分と相手と、皆が喜べる未来になっていくと思うのです。

少しずつでも、良い世界になりますように。

2014年度、ウェルカム。

(^_^)